The Intelligence Lost

1978年、就職した会社が音響メーカーであったためか楽器をやる社員も多く、新入社員の分際で(笑)社内パーティ用にバンドを立ち上げた。それがThe Intelligence Lostと言うバンドで、なんだかんだ2年近く続いた。会社の納涼パーティだけでなく渋谷の三浦スタジオ2階で自主Liveも開催した。

 

パーティバンドなのでカバー主体なのだが、当時の音楽状況とメンバーの趣味を反映した選曲で、ふたりいたヴォーカルがそれぞれパンク・ロックとオールディーズと言う両極端な音楽指向であったため、レパートリーもSex Pistols、The Stranglers、The Clash、Tom Robinson Band、Graham Parker & the Rumorと言った当時の新進気鋭のバンドのレパートリーVS Elvis、クールス、ジョニー・ティロットソンと言った50'sの2大勢力に加え、ほかのメンバーが持ってきたThe Eagles、Boz Scaggs、Elmore James、The Rolling Stones、The Beatles、さらに勝手にシンドバッド・・・と支離滅裂なよく言えばヴァラエティに富んだものであった。

 

メンバーには論客も多くいたため、この写真はメンバーのエッセイを集めて編集した小冊子。自主Liveで配布した。「Sex Pistols試論」や「びんそん’s トーク」(勿論、とうよう’s トークのもじりである)、僕が書いたBreakawayにちなんだエッセイなど今読んでも面白い。

 


KAMIKAZE!

上記のThe Intelligence Lostのカバー路線に嫌気が差した僕は1979年後半に脱退。続いてヴォーカルの一人、パンクロック派のToshiも続いて抜けてきた。Toshiは職場の先輩でもあるが、英国にとことん入れ込んだ人物で僕は尊敬していた。

 

その彼が突如ベースを購入し、ベーシストに転向し、僕の大学同窓生のJunを誘って結成したのがこれだ。Toshiが渡英することが決まっていたので短命に終わると言う前提から彼がKAMIKAZE!と命名した。

 

デビューはなんと六本木のS-Kenスタジオを借り切ってJunが計画したパーティだった。突風のような演奏に参加者は騒然となった。年が明けて1月の社内パーティにも登場、リハーサルでは用意されていたワイングラスがバンドの音量のデカさから来る震動でテーブルから落ち、割れた。その割れる音がLive録音テープに収められている。

 

左は解散記念に作った4曲入り20cmEPで渋谷エピキュラス・スタジオに2トラ38デッキを持ち込んで一発録音したが、イコライジングなどの後処理なしで盤にしたため残念ながら音は痩せていた。

 

200枚生産したが、高田馬場にあった輸入盤店Opus 1で1週間で20枚売るなどしてもう在庫は残っていない。21世紀になって、新宿のとある中古盤店の主人と知り合い、中古市場で出回ったものを英国人だったかが買っていったと聞いた。またゴジラレコードによって開拓された自主制作盤であったが、やはり珍しかった時代だったので、「日本のパンクロック」という本にも載っている。


Change 2000

いまとなっては伝説の・・・と呼ばれるかもしれないが、東京ロッカーズ・ムーヴメントの渦中にあったChange 2000。のちにZELDAを初めとしていくつかのバンド、さらにどんとの奥様となる小嶋さちほさんとその友人たちで作られた。僕は79年3月11日新宿ロフトで行われた東京ロッカーズLiveレコーディングの日、会場を出たところで売っていたこの雑誌に出会い、とても感動したので編集部に手紙を出した。そしたらチホさんから電話が掛かってきて、Changeに書きませんか?みたいなお誘いだった。

 

実際にChangeにライターとして書いたのはVol.11で、ももよにインタビューしたのが最初だった。その号にはシュルツ・ハルナ(Signal Zで知られるデザイナー)の高円寺「アケタの店」でのLiveの記事も寄稿している。またその翌号ではセカンド・アルバムをリリースしたS-Kenへのインタビューと盛り上がりつつあった東京フリークスの加納君へのインタビューを記事にしている。デザインの僕がやり、S-Kenのほうはデザイナーの奥村靫正氏が目に留めてくれ、これいいね、とコメントしてたとS-Kenから聞いた。

 

Changeといえばももよも含め、編集部で社員旅行と称して日光へ一泊というのがあり、今思うとすごい面子と温泉行ったものだと思う。


Kids Are All Night

渡英したKAMIKAZE!のToshiがロンドンからGIG体験を手紙にして送ってくれ、それが無類の面白さだったのでこれを本にして多くの人に読んでもらったらどうか?と発案し、Change 2000の増刊号というカタチで出版した。Toshiの手紙を僕が手書きで起こし、手紙に着いていたToshiによるイラストや送ってくれた写真、雑誌の切り抜きなどを配し、タイトルはThe Whoから拝借した。現場ならではのGIG体験が満載だが、中でもThe Slitsの奔放な行動、暴徒のようにポゴを決めまくる観客に混じってステージ前で体験したThe Clashなどほかでは読めないものばかり。裏表紙にKAMIKAZE!のEPの広告を載せた。これはまだ在庫があるので欲しい方は連絡ください。一部200円。


Stone People

当時、まだYouTubeはなく、アーティストが動く姿は会場で行われるフィルムコンサートがメインだった。ストーンズのフィルムコンサートが中野などで年に2-3回あり、僕も通うようになったのだが、80年代になってたしか池袋で開催されたイベントでファンクラブの会長・池田氏に声をかけたのだった。

 

少しのお喋りのあと、僕は会員になることを決めた。ストーンズが来日したらファンクラブに入っているほうが絶対有利だろうという考えだった。

 

会報のStone Peopleはマニアックな記事満載で当初隅から隅までむさぼるように読んだものだ。しばらくして僕はストーンズがカバーしているブルースやロックンロール・ナンバーのオリジナルを紹介したら面白いし、役に立つと考え、ファンクラブに提案し、「カバー・バージョン」のタイトルで連載が始まった。ストーンズ・バージョンとの対比をし、そういったオリジナルが聴けるレコードを紹介した。

 

かなりの反響があり、僕が持ってない曲をカセットに入れて送ってくれる会員も出て来て、いい感じで輪が廻った。ファンクラブのパーティで、僕が作ったMixテープでDJめいたこともやった。

 

会報では一般の記事もいくつか寄稿したが白眉はこの号のロン・ウッドとミック・ジャガー初来日のレポートだろう。ロニーとは中野サンプラザの楽屋で対面した。彼は自分の絵画展も同時に行ない、その記者会見終了後、会場で僕のカミさんと生まれたばかりの長男がボ・ディドリーやロニーと会い、長男はボに抱っこしてもらっただけでなくロニーにおでこにキスしてもらうという奇跡の体験をした。

 

このファンクラブでの活動を通して知り合った友人は数知れずだし、21世紀になりSNSが始まると、Stone Peopleを読んでいましたというファンと何人も出会い、やっぱやることをやるといいことあるなぁ!と思ったものだ(笑)。

 


ストーンズ・ジェネレーション(宝島社)

鳥井賀句氏編集によるこのストーンズ本にファンクラブも大いに貢献した。オビにはそうそうたる面子とともに僕の名前もある。

 

鳥井氏とはパンクロックのフィルムコンサートなどで顔を見ていたが、直接の面識はなかった。ある晩、突然電話が掛かってきてストーンズ本を紹介する文章を書いて欲しいと言われた。びっくりこいた僕であったが、持っていた本や鳥井さんが集めてくれた本などを取り混ぜて記事を書いた。

 

僕はNew Yorkのストーンズ・ファンジンBeggars Banquetの日本で最初の定期購読者であったのでそういったファンジンの情報も載せた。Beggars BanquetはBill German氏のワンマン編集で、キースを初めストーンズ自体と交流があったBillが彼にしか書けない記事を毎号掲載していた。Billとは90年にストーンズが来日した際、ホテル・オークラで対面した。BBは80年代後半にはインディペンデントなファンジンからストーンズのオフィシャルファンジンとなったが、いまはもう刊行してはいない。そのかわり、BillはUnder Their Thumbというハードバック本を上梓し、僕は2005年にNYCで彼と再会した。