もうTシャツは似合わない!77年夏

1977年夏と言えば、就職活動を始めた時だ。その頃はまぁ、夏から準備すればよかった。会社訪問解禁も10月からかな、とにかく秋からだったと思う。夏休みに何をしたかって、まず、髪を切った。そんなに長髪ではなかったが(僕はサラリーマンになってからのほうが髪は長い)、そこそこ長かったので、履歴書の写真を撮るために近所の床屋に行った。初めて行く床屋だった。バリカンでガーっというのではなく丁寧にやってくれそうな普通の床屋を選んだ。

 

散髪が始まると、理髪師が「なにか活動されてました?」って僕に尋ねてきた。「え?活動?」ああ、そうかいわゆる学生運動とか左翼的な活動を指していたんだな。いまになってみれば「ああ、やってますよ」「!」「あはは、就職活動ですよ!」なんて言えば良かったと思うが、ナイーブだったから「え、いえ、やってませんけど」「・・・・。」な感じで返答した。散髪のあと、写真を撮りに行った。たぶんその日のうちに行ったんじゃないか。

 

髪、短くなっちゃったなぁ。こう言っちゃあれだけど、七三に分けたことなどなかったが、そうでもしないとどうにもカッチョ悪い感じだ。「ああ、もうTシャツは似合わなくなった・・・」その寂しさたるや。「何かが終わった」感。センチメンタルになっちゃったりしてさ。人生一区切りかよ、おい・・・。大学の就職活動窓口に顔を出したがTシャツはもう似合わないので、ボタンダウンのシャツを着て行った。黄色いチェックのだ。「お、誰だかわかんなかった!」と言われ、ますます「何か終わった感」を感じて惨めな気持ちになった。

バンドはT嶋と一緒にやっていたが、夏休みに練習でスタジオ入った時の写真がこれだ。僕だけじゃなくみんな髪を切っていた。若返ったような変な感じだ。

 

面接のためのスーツを買いに行った。今のようにリクルート・スーツ全盛でもなかったが、紺の地味なのはヤだった。大宮のデパートに買いに行ったが、グレー地に複雑な色の細いストライプが入ったヤツにした。店員が「型破りですねぇ」と言った。ラペルは馬鹿みたく広かった。ネクタイも買った。バイト時代のぐにゃぐにゃのじゃなくてちゃんとしたヤツ。幅は当然広かった。

 

普通に就職しようと思っていたから有名企業を受けた。受験会場で自分のこれまでのことや今後の抱負を書かされた。「1955年、ロックンロールと同じ年生まれ。私の身体には熱いロックンロールの血が流れている!」などと書いたら、そこは落ちた。

 

アナウンサーもいいなと思っていたので、渋谷区神南のNHKにも行った。「この原稿を読んでください」「はい」と言ってブースに入って読み始めたら、「・・・あ、もう結構です」。また落ちた。しかしアナウンサーなどという職業は自我を出すわけにはいかないし、僕の嫌いな野球実況とかもやらされると聞いたので、受からなくてよかった。

 

最終的に定年までさらに定年後も勤めている某音響メーカーに入社したのだが、その時の二次面接でリクルート・スーツじゃないヤツが僕のほかにひとりいた。S水と名乗るやつだった。話かけたらえらいロック・マニアだった。入社式の時見まわすと、二次面接でそのグループにいて合格したのは僕とそいつだけだった。型破りなほうが受かったのだ。ちょうどパンクロックを聴き始めた頃だったので短めの髪はちょっと立たせていた。S水君が僕を見て「いいじゃん、いまパンクロック流行ってるから・・・!」などと言った。面接のあとスーツで大学に行った。なんだかこっぱずかしかったから髪はツンツンにしてネクタイを緩め英国パンクロッカーもどきを気取ったりした。自意識過剰である。

キングの死

少し戻るが、8月中旬、厳密に言うと17日。僕はダウンタウン・ブギウギ・バンドを観に日本武道館に居た。再び絶頂にあった彼らのステージ。僕はわざわざ赤坂のブギウギ・オフィスまで出向いて前売りチケットを買った。ブギウギ・オフィスに行くと若い男が応対してくれた。もしかしたら宇崎さんとかに会えるかな、なんて期待もあったが、叶わなかった。もっとも宇崎さんとは1990年に海老名のサービスエリアで出会うことになるのだが。その応対してくれた彼もバンドマンで僕もバンドやってると言ったら「え?就職するの?何でバンドでプロになんないの?」と質問されてしまった。オープニング・ナンバーはこのLPのトップに収録されている「ためらいもなく時は過ぎ」だったが、今調べるとこのLPの発売は9月となっている。「身も心も」もやっているが、こちもシングルでさえ、8月には出ていない。ほんとか??

ブギウギ・オフィスまで行ってチケットを買ったお陰でいいポジションでDTBWBのステージを観ることができた。大いにコンサートを楽しんだ僕は興奮もあってT嶋に電話したんだと思う。いや、なんらかの情報でその前に知ったのかもしれない。ELVISが死んだ、と。

 

僕にとってELVISは以前も書いたとおり、出会いは「この胸のときめきを」だったし、Elvis On Stageであったし、ハワイからの実況中継だった。そのあとで初期のElvisを知って、Beatlesのルーツの大きな部分という位置づけをしていた。ラスヴェガスのディナーショーのElvisなんて大人のものだと思っていた。つまり過去の人ってわけだ。

 

T嶋は電話で「TVでさ、50年代のElvis観たけどもうぶっ飛んだぜ!」と興奮して喋ってくれた。僕はその時武道館でDTBWBを観ていたのだ。動く若きElvisなんて滅多に見られるモンじゃなかったからT嶋と同じ興奮を僕も体験したかったと思った。60年代末にジム・モリソンやジャニス、ジミ・ヘンドリックス、さらにはブライアン・ジョーンズが亡くなっていたが、それらには子供過ぎてリアルタイムの記憶がない。SF研究会だったからね。そういう意味ではElvisのケースは初めて自覚した出来事だったかも知れない。

この頃こんなLiveに行っていた

僕はLiveに行く、と言う行為が日常的なものになっているが(勿論、時間と予算は限られている)、大きなコンサートはいざ知らず、Live houseなんかだと行きにくいという声を結構聞く気がする。まぁ、Live houseって言うのは食事できるところもあるけど、大方はドリンクのみ、地下のスペース、再入場不可、煙草の煙、爆音そしてなにより一見さんお断りみたいな雰囲気がそうさせているのかと思う。この次の項で触れるが、東京ROCKERSに行くようになってChange 2000で「GIGを日常化する」みたいなことが書いてあって、「ん?!」と思ったことがあるが、普通の人はなかなかそうは行かないというのが相場だと思う。東京も毎日Live houseではGIGをやっているし、その数も相当なものだ。友人が出るから行くという動機の人も多いと思う。逆に知り合い同士みたいなのがClosedなフィーリングを作っている面もあると思う。僕だって「ああ、今日はAWAYだなぁ」と思うことあるし(笑)。でも自分で観たいと思ってきたんだからAWAYでも気にしないようにしているし、気に入ればバンドに声掛けるし。怖モテのバンドでもいいと思ったら気軽に声を掛けてしまう!笑 年の功なのか!笑そうやって知り合いも増えていくしね。

で、この頃行ったLive/GIGについてチケットなど貼りながら、少し書くとする。そうだ、手許にあるチケットやチラシ(フライヤーなどと洒落た呼び方はずっと後になってからだ)を掲示するコーナーを作ろう。年齢が合わなくて行けなかったという人はせいぜい悔しい思いをしてください(笑)。でも、いま観れるものを観ておくのがやっぱ一番だと思う。

 

まずは、キャロルはもう載せたから、これ。キャロル解散後、すぐに観に行ったエーちゃん。でも、この日付からすると、約一年後だね。あんまり間を空けなかったと思ってたが違うね。

 

僕は友人のO君と行ったのだが、ぼくら二人以外は全員ツッパリ。いや、誇張でもなんでもない。キャロルの日比谷よりお客さんは濃い。で、コンサートが終わって外に出たら単車と四輪で喧嘩。怒鳴りあってる。でめこのやろーとフィジカルな接触になったどうかは覚えていない。

 

となるとこっちの方が古いね。てか、キャロルの日比谷で観て、興味を持ったので結構中央線を西に下って観に行ったもんだね。

 

そう、ルージュだ。ホワイトママとかディックトレーシーとかほかにもスウェイとかも居た。ルージュファミリーに入ろうという申込書もある。マネージャーのCさんから電話掛かってきたこともある。あのとき入部していたらどうなっていただろうか?このあと、スクリューバンカーズになってからも観に行ったが、それとわかるチケットがない。

 

洋楽はKISS@日本武道館!北東スタンド!そう、いまはもう人を入れてないと聞く「北東スタンド」!ジーン・シモンズの後頭部がよく見える位置だった。で、ことはバンドを後ろから(実際はナナメ後ろ)観ると言う貴重な体験だった。だからそのあと「ヤング・ミュージック・ショー」で正面から見た時は改めて興奮、TVにしっかりと真正面から鎮座ましましてWATCHしたものだ。右端はプログラム。デカイ。

 

もうひとつ、よく覚えているのはジャクソン・ブラウン。日付からするとKISSより早い。と言うことは洋楽コンサート初体験はジャクソン・ブラウンだったんだね。チケットには「御招待」のはんこがある。大学時代やってた音楽サークルのメンバーと一緒に行った。彼らがチケットを持ってたんだ。なにかのコネクションがあったのだろう。

 

正直、ジャクソン・ブラウン、期待しないで観に行った。だって、フォークぽい印象があったから。でも観に行ってぜんぜん違うロックンローラーだと知った。本編はオリジナル中心だったが、アンコールがDo You Wanna DanceとSweet Little Sixteenだったのだ。前者が出た瞬間、うわ!とびっくりしたが、チャック・ベリーが出るに及んで「やっぱアメリカ人!聴いてきたものが違う!」と再認識した。演奏も実に楽しそうで衝撃を受けた。そしてそれに影響され、このあと5月に企画したサークルのコンサートでは一人エレキの弾き語りでSweet Little Sixteenをやったものだった!(もう一曲、カバーをやったのが、泉谷しげるの「電光石火に青い靴」。僕らしからぬ選曲だった)

 

ところで、いまネットでジャクソン・ブラウンの初来日を調べていたらこの3月19日@新宿厚生年金というのが載っていない。18日、サンプラザ、20日厚生年金となっている。ということはこの19日の公演はなにか特別のものであった(例えばFMの収録とか)可能性がある。ジャクソン・ブラウンについて言えば、それ以来、大ファンだし、このツアーのタイトルThe Pretenderも愛聴盤だ。