ぶちやぶれ!東京ロッカーズ!

僕の実家はまだ埼玉県浦和市だった。いまのように「さいたま」とか言わないもっとマジメなイメージだ。僕が中学生のころ、「赤き血のイレブン」というサッカー漫画がヒットしていたが、それは県立浦和西高をモデルにしたものだった。ベッドタウンと言われていたが、都内へ向かう電車(高崎線や東北線などは「列車」だった)は朝も晩も超満員。サッカーはたしかに「みんなやっている」感じだったが、たしかに文教都市と言われるだけあって近くの大宮のようなちょっとヤバイ雰囲気はなく、おとなしい地域だった。

 

当時ウラワ・ロックンロール・センター(URC)というのがあって、荒川土手の田島が原と言うところで野外コンサートをよくやっていた。話には聞いていたし、関西からメリケンブーツが来ると聞いたときには行こうかなと思ったが、ついに一回も行かずじまいだった。超ノンポリだったからイベント企画者の持つ政治的な臭いがどうもだめだった。

 

大学4年になって卒論を準備し始めたがどうせやるなら面白くやろうということで、コミュニケーション専攻だった僕は「ロックとシンボル~ロックにおけるノン・ヴァーバル・コミュニケーション」というテーマで進めることにした。これはロックンロール初期のELVISから70年代末のパンク・ロックに至る代表的なシンボル、すなわちヘア・スタイルやファッションを集め、音楽性と紐付けながら整理していくというものであり、実際にロックの当事者である人々にも意見を聴いてみようと思い、夏休みにURC企画の埼玉会館だったと思うがイベントに行った。すでにパンク・ロックにどっぷりだったからURCのイベントに出てくるアングラな雰囲気満載のバンドは古臭く思えた。サウンド的にはニューウェーヴにつながるようなのもあったけれど垢抜けないという印象が強かった。

終演後、URCの重鎮含めたバンドやスタッフの方々に話を聞かせて欲しいとお願いし、会議室みたいなとこで軽くインタビューした。会長(センター長か?)は痩せていて、肩より下に伸びるストレートな長髪にベルボトムだったと思う。もうそれだけで威圧されてしまうわけだが、出演バンドのひとつが「大学なんてやめちまえよ」みたいなコメントをして僕をビビらせたりした。結果としてほとんど得るもののないインタビューになってしまったが、いち学生の申し出によく応じてくれたものだと思う。

 

さて、前置きが長くなったが、浦和、である。エキサイティングなものはほとんどないそんな地域に輸入盤屋が開店した。旧中仙道を僕の家から浦和駅へ向かう、ちょうど中ほどの位置にその店は洋裁用品店の2階にあったが、入り口がちょうどバス停だったこともありBus Stop Recordsと言う名前だった。これで東京まで行かなくとも輸入盤が手に入ると興奮し、開店の日に行ってみた。若い店主とすぐに仲良くなり、それから毎日のように通った。顔見知りだから行くと何か買わないと悪いなぁと言う気持ちになり、なにか買うわけだ。入荷したばかりの新譜あるいはカットアウト盤をまだダンボールに入ったままの状態であさらせてもらったりもした。

 

就職して間もない頃だったと思うが、今度こんなイベントがあって友だちが出るんですよと言って教えてくれたのがもはや伝説となっている六本木S-Ken Studioのこけら落としだったのだ。実はその店主、以前、ピース・シティと言うバンドのメンバーで、その友人というのが田中唯士氏でバンドと言うのがS-Kenだったのである。店主はその2,3日前にS-Kenのリハーサルに行ったと言って、僕に強く推薦してきた。

たしか「パンク仕掛け99%」というタイトルだったと思う。アンドロイドだか人間だかわからないような人物のイラストをメインに据えたチラシを持っていたがどこかに行ってしまった(見つかったら掲示します)。1978年5月29日だったかそんな感じの週末だった。僕はT嶋を誘いふたりで観に行った。

 

この時、僕はすでにミラーズを単独で観ていて、最近友人と話をしていて、それはその友人も企画者だったラモーンズ・ファンクラブのイベントだったらしい。渋谷屋根裏でたしか前半はパンクロックのフィルム・コンサートだった。ドクター・フィールグッドの赤いピンバッヂを貰った。ミラーズは第2部に登場、ルックスこそファッショナブルではなかったが、パフォーマンスはすごかった。短髪と言ってもパンキッシュなツンツンヘアーではなく、誤解を恐れずに言えば北島三郎みたいな感じに見えたドラマーが叩きながら歌う。叩きながらだからボーカルがオフ気味だったりする。3人編成でそれまで経験したことのないスピード感で演奏する姿に圧倒された。途中、最前列に居た女の人が「ロボットやってよ!」とリクエストしていたが、その人はミスター・カイトのジーンだとあとでわかった。このやり取りからすでにミラーズとミスター・カイトは顔なじみの仲であり、一緒に活動していたのではないかと想像した。

 

六本木のイベントでは椅子がなく、観客はスタンディングと言うより、床に座るスタイルだったと思う。最初に出て来たのがスピードだった。ギタリストが元村八分だとか言うのもすでに情報として知ってたかもしれないが僕自身、村八分はリアルタイムなのにまともに観たことも聴いたこともなかったから、なんかすごい、という印象が強かった。スピードは僕にとってThe Damnedとイメージがだぶった。

2番目がミラーズだったかミスター・カイトだったかはっきり覚えていないが、途中、九州だったかそっちのほうからやって来たエレキギター引き語りが飛び入り、ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」みたいなフレーズの自作曲を1曲演奏した。そのあとがたぶんリザードだったかな。彼らは紅蜥蜴という名で70年代初期から活躍していたことも知っていたからどこか「変身したのか」みたいなネガティヴな見方をしてしまった。しかし、何回も観ていくうちに、流行だから変身したというイージーな感じではないことがわかった。リーダーのモモヨとはChange 2000を通じて知り合になり、横浜国立大学のオールナイトで一緒だったり(大きな教室が楽屋だった)、Change 2000の社員旅行(!)で日光に行って温泉入ったりもした(笑)。

 

そしてついにS-Kenが僕の右手のほうからギターを手に、座っている観客をまたぐようにして現れた。うひゃー遂に出た!という感じだ。これがBus Stop Recordsの店主から伝えられたバンドかと。田中さんはストライプ柄のジャケットに短髪、グラサンだった。そもそも東京ロッカーズの面々は僕より年上の人たちがメインだったが、田中さんはひときわ上だったように見えた。曲が進み「単調なレゲエ」という歌になった。これは後にテンポアップされて「ぶちやぶれ!」と改題され、その異常に熱い演奏を映画「ロッカーズ」で観ることができる。S-Kenは一種の業界バンドで(と言ってもメンバーの職業が業界人というだけの話)ベースに六本木スタジオ・オーナーでワーナー・パイオニアの山浦氏、ギターがサウスポーの増尾氏(ファイアバードだったかな?)、ドラムがキングレコードの加藤氏で田中さんもヤマハの特派員として滞在したニューヨーク帰りだった。「単調なレゲエ」の歌詞がちょうど就職した僕にはぴったりで「♪大学卒業、ロックも卒業、エリートコース・・・」と言うような内容でアイデンティティを感じて、一発でファンになった。終演後ステージを引き上げる田中さんに「すごいよかった!歌詞がいいね!」などとT嶋とふたりで声を掛けた。僕はBus Stop Recordsの店主から紹介されたことも勿論付け加えた。しかしその日はそれ以上の進展はなく、田中さんと親しくなるのはもっとずっと後、S-Kenのファースト・アルバム録音の頃だ。

 

ところで、この日、ぼくらはS-Kenを観て帰ってしまったのでフリクションは観ていない。なぜかS-Kenがトリだと勝手に勘違いしたようだった。思い返すと実に残念なことをしたものだと悔やまれる。