ビートルズからチャック・ベリー、そしてストーンズへ

#1ではビートルズとの出会いからいかに彼らに傾倒して行ったかを語ったが、ビートルズ本を読んでいくと、彼らがお手本にしたミュージシャンの名前がいくつも出てくる。とくにチャック・ベリーという人物が最重要人物であることを知る。また彼らがお手本にしたのが「ロックンロール」であることも学び、ひとつの音楽ジャンルとして僕の中に位置を占めるようになった。自分でレコードを買えない以上、ラジオで掛かるのを待つしかない。だからオールディーズ特集があると聞き耳を立てた。チャックを聴いたのが先かそれともこっちが先かもはやどうでいいが、「ビートルズ革命」の中でジョンがWhole Lotta Shakin' Goin' Onこそ、最高のロックンロールだと言っているのがどうにも気になり、絶対聴きたい!と強く思うようになった。

日曜夜にFM東京でやっていた「オットー・ミュージック・シャウト」に葉書を書いた。DJは森直也。そうしたら掛かったんだ。ジェリー・リー・ルイス!しかし、僕はそのときちょうど入浴中で聞き逃してしまった。翌日、学校でロックの好きな友人に教えてもらった。「いまごろこんなのをリクエストしてくる人がいるんですねぇ」みたいなコメントがあったと言う。でもそれは決して否定的なものではなく、ロックンロールの古典をリクエストしてくれたことに森氏自身もインスパイアされたのではないだろうか?とにかく僕の最初のリクエスト体験はそんな風に終わった。

僕にしてみればビートルズだけでなくそのルーツを知っていると言うホンモノ感で優越感を感じていたんだと思う。エルヴィスは言うに及ばず、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツなどを機会があれば聴いてロックンロール教養を高めていった。

高校時代はビートルズばかり聴いていた感があるが、実際にはラジオから流れるヒット曲を初め、いろいろ聴いていた。当時のヒットチャートはUSやUKだけでなく欧州大陸のイタリアとかフランス、オランダからのヒット曲、そして映画音楽がかなりあった。とくに映画音楽はリクエスト番組でも特集がよく組まれていた。「ある愛の詩」「ゴッド・ファーザー愛のテーマ」などの旬のものから古いものも含めて、まぁ退屈だった。インストだし、ロックンロールじゃないし。

逆に好きだったUS/UK以外のヒット曲と言えばまっ先にショッキング・ブルーの「悲しき鉄道員」やミッシェル・ポルナレフ「シェリーに口づけ」、ジリオラ・チンクエッティ「雨」などが思い出される。

そんな国籍混合なヒット曲の中でひときわカッコよく迫ってきたのがBrown Sugarだった。ローリング・ストーンズと言っても知識はなく、少し物心ついた時に見たのが、セッションメンを加え、6人も7人もいる写真だった。よく聴いていた文化放送「カム・トゥゲザー」(DJはみのもんた)でもらったロックの歴史絵巻のようなものに載ってたもので、いま探してもとっくに捨ててしまってない。ネットで探しても見つからないのでそれに似た「人数の多い」ストーンズの写真を拝借して載せておく。ビートルズが4人でやっているのにストーンズは6人も7人もいるとは卑怯な!というのが第一印象。4人のモンキーズに対して5人の(それは誤解だったのだが)ビートルズ。そして今度は7人のストーンズだったわけだ。

#1に登場したギター小僧のI永君がある朝、教室に登場するなり「ブラウン・シュガーのイントロ、弾き方わかったぞ!」と僕のほうを見て大きな声で叫んだが、彼がキースと同じ5弦のOpen Gでそれを会得したのかは謎である。

ストーンズの最新ヒットはBrown Sugarだったが、リクエスト番組ではSatisfactionが印象に残った。メンバーの違いなど詳しいことはあとでわかるのだが、タイガースのお陰なのか、どこかGSぽさがストーンズから感じられた。

文化祭で8mm映画

高校の放送部が主催したレコードコンサートで初めてDeep Purpleを聴いた。Child In Time、Fireballなどを掛けていたのは覚えているが、たぶんHighway Starもあったと思う。デカい音で聞くその複雑なサウンドはビートルズやポップソングとは違う衝撃を伴い、カッコよかった。そして2年生の文化祭では僕らはSF研究会として出展したが、取り巻きにハードロックの好きなO地君というのが居て、後にブルースバンドBREAKDOWNのドラマーは彼の弟だと言うことを知るのだが、彼は教室にドラムとかアンプを持ち込んでバンドをやろうとしていた。彼自身はベースを弾くので誰か歌わないか?ということで僕も誘われたがCreamのSunshine Of Your Loveはまるで知らなかったし、じゃCCRのGreen Riverはどう?と言われても所詮無理であった。彼はちょうど来日していたレッド・ツェッペリンを観て来たところで興奮していたのだった(上の来日チラシは大型本Whole Lotta Led Zeppelinからの引用)。レコードコンサートでDeep Purpleにショックを受けたと書いたがそのままハード、ラウド&ヘヴィな方向には行かず、やはり中心はビートルズやちょっとハードであってもCCRやThree Dog Nightレベルだった。その頃、3人になったCCRが来日し、例のI永君は観に行ったと思うが毎月買っていたミュージックライフの附録でジョン・フォガティが「In My Lifeが一番好き。除隊後のエルヴィスはだめになった」などと発言していたがその真意がわかるまで、少々時間を要した。

文化祭で8mm映画を撮った。そのサントラを僕が自分のエアチェックコレクションから編集して制作した。しょっぱなはUS盤Help!に入っているJames Bondのテーマ、そのあとすぐにI Want You、Under My Thumbと来て、途中吉田拓郎のフジカラーのCMソングを挟んで、ビートルズバージョンのRoll Over Beethovenなどを使った。これがウケてたいへんだったが残念なことにその8mmは誰が持っているのかいまはまったくわからない。その8mmカメラを持ってた友人もかなりのビートルズ好きでSF研究会の会長の家に集まった時、All Things Must Passを持ってきて掛けていた。そのO島会長、と言っても同級生だが、の家には家具調ステレオセットがあり、遊びに行くとビクターかなんかのステレオ効果音のレコードで音が左右に動くさまをデモってくれ皆が驚嘆の声を上げたり、上条恒彦と六文銭の「出発の歌」をヴォリュームを上げて掛け、リビングのカーテンが揺れたりするのを「すっげーなー!」などと言いながら楽しんだものだ。なお、彼は南沙織の絶対的なファンで、運良く親戚がレコード店をやっていたものだから等身大たて看板などの宣伝グッズも持っていた。また絶対的に歌謡曲第一主義で洋楽はバカにしていたというより文化が違うという意見だったが、南沙織の「傷つく世代」が実はそのちょっと前に出たElton Johnの「ピアニストを撃つな!」Have Mercy For The Criminalとイントロがほぼ同じなことを明らかにしてみせると口惜しそうにしていたっけ(笑)。

キャロル登場!

72年10月、フジテレビ日曜午後のリヴヤングでキャロルがデビューする。その番組は見逃したし、どういう経路で彼らを知ったか覚えていないが、ライト・ミュージックというギター弾く人のための音楽誌の読者コーナーに「クリーム以来、ギタースタイルはずいぶん変化したが、なんとチャック・ベリーのギタースタイルなんだ。その名はキャロル。みんな聞くべし」とか記憶の限りそんな感じの投稿があった。それでFMで「ルイジアンナ」が掛かるのを知り、テープを用意して息を呑んでその瞬間を待った。ん?ん?なんか山本リンダみたいな感じ?日本語なのに英語っぽいような。で、それからと言うもの毎日繰り返し聴いた。

 

年が明けて73年、いよいよリヴヤングにキャロルが2回目の登場だ。皮ジャンの4人組。演奏曲は「ヘイ・タクシー」。画面に勿論釘付けだ。「僕ら曲はたくさんあるから・・・」エーちゃんがそんなようなことを喋ってた。キャロルの登場によって、ああ、これで日本でもビートルズの夢を見れるかも、と思った。

 

73年1月と言えばストーンズの来日騒動があったが、実はキャロルも前座候補だったとあとで知った。ストーンズ本人たちも候補バンドを聴いて、結局フラワー・トラヴェリン・バンドに決まった。国会議員の糸山栄太郎氏がなんとかするとか言う噂も広まったが、結局ストーンズはやって来なかった。そんな中、ニューミュージックマガジンが73年1月号でキャロルを取り上げていた。内海利勝や相原誠と言ったメンバーに混じってジョニー大倉という名前は圧倒的にバタくさかったが反対に矢沢永吉という名前が圧倒的に泥臭かった。

 

情報は新聞のTV・ラジオ欄にFM週刊誌くらいしかなかったが、キャロルが出るのを知ると録音した。キャロルは毎月一枚シングル盤をリリースしていたが、レコードプレイヤーを持っていなかったのでラジオで追いかけるしかなかった。そのうち、平日の夕方5時だったかにTBSでやってたぎんざNOWの水曜のレギュラーとして出るようになった。学校から急いで帰るとTVを点けた。番組の冒頭に一曲、おしまいにもう一曲演奏するパターンだったが、エンディングのほうのはたいていスポンサー名がかぶさり、途中でフェイドアウトした。ラジオで言えば文化放送ハローパーティ(司会はせんだみつお、土居まさる、ケメと言ったあたり)によく出ていたし、TVではあるが東京12チャンネルの日曜夜、まだツナギになる前のコンポラ時代のダウンタウン・ブギウギ・バンドが司会をする番組にも出てた。スモーキン・ブギで人気が出る前のダウンタウンはキャロルに比べダサい印象だった。TVではレコードになってない曲もかなりやっていた。チャック・ベリーのキャロル、スウィート・リトル・ロックンローラーなどがそうだ。スタジオバージョンのないスローダウンなんかもやっていたね。

キャロルの登場はそれまでオールディーズとして括られていたロックンロールをもう一度真正面からやっていいんだ、という当たり前のことを示してくれた点で日本のロック文化の中ではやはり重要なのだ。とくにJohnny B. Goodeを「曲として」レパートリーにしたのはすごい功績だと思う。彼ら以前はLiveのラストで出演者がみな出てきてジャムったりする場面でしかお目にかかれない曲だったのだ。

ところで、キャロルのファーストアルバムはA面が3枚目までのシングル全部、B面がカバーという構成で、B面の選曲はその頃日本盤が出たDave Clark Fiveのロックンロール・アルバム("The Dave Clark Five Play Good Old Rock'n'roll")から持ってきたと思われるナンバーがいくつもある。Good Old Rock'n'roll、One Night、Memphis Tennesseeなどは明らかにDave Clark Fiveだ。そういえばサードシングル「やりきれない気持ち」はシングルとLPは別テイク。LPでは「♪だーからダーリン、Come back me!」と歌っているが、文法的におかしくて、シングルではちゃんとCome back to me!と訂正されている。だから録音としてはシングルの方があとなんだと思う。またこれはかなりマニアックな話だが、Good Old Rock'n'rollやTutti Fruttiには別テイクがあり、ゴールデン・ヒッツ・マーク2で聴ける。

そのころ英国ではグラム・ロックが人気でそれに先駆けたロックンロール・リバイバルの波もあってスレイド、T.REXを初めノリのいいナンバーが多かった。日本でもキャロルを筆頭にロックンロールを打ち出したバンドがいくつも出て来た。サディスティック・ミカ・バンド、つのだひろとスペースバンド、ファニー・カンパニーなどがそうで、内田裕也も1815ロックンロール・バンドと名乗っていたし、かまやつひろしもウォッカ・コリンズと一緒にグラムロックにインスパイアされたナンバーをやっていた。思えばこの波を日本で先駆けたのは、サディスティック・ミカ・バンドの「サイクリング・ブギ」だったのだろう。発売日を調べたら1972年6月5日とあり、誰も見向きもしなかったブギウギを「♪サ、サ、サ、サイクリング・ブギ~」とお馴染みのパターンを盛り込んでシャレ心満載でやっていた。英国には詳しかった加藤和彦らしい気もするが、T.REXを引き合いに出すまでもなく着眼点も内容もユニークだった。

その後ロックンロールというと皮ジャンにリーゼントというスタイルになってしまった感もあるが(このことについて僕はキャロルとダウンタウン・ブギウギ・バンドの功罪だと思っている)、キャロルの場合はハンブルク時代のビートルズがヒントだったわけで、基本はビートルズなのだ。キャロルを発端にビートルズ・スタイルのバンドがいくつも出て来た。ビートルズをそのままそれ以前にはなかったハイ・クオリティでコピーしたThe Bad Boysが最たるものだが、ビートルズ初期のファッションまんまのレモンドッグ、ノラなどはTVでよく見かけたものだ。一方、キャロルみたいな皮ジャンのバンドもビート・ブラザーズなんてのもいたし、キャロルの前身ヤマトもメンバー入れ替えてやっていたようだ。音楽雑誌で特集が組まれていた。

バッド・ボーイズに関してはある夜ラジオを聴いてたらいきなりPlease Mr. Postmanが流れてきて、あれ?これは誰だ?キャロルじゃないしなぁ!?と思ったのが出会いで、ほんとうにびっくりしたし、わくわくしたものだ。ラジオで公開Liveをやっていてそれを録音したのを友人に聞かせたら「え?これ、ビートルズのいつのLiveだろう?」なんていう反応が返ってきて可笑しかった。ノラ(NORAと表記されていた)には後にエーちゃんの相棒となる相沢行夫がいたのだが、そういうことはあとで知った。レモンドッグは「起きなよスージー」というどっかで聞いたタイトルのシングルでデビューしたが、それ一枚きりだった。しかし偶然彼らのLiveをラジオで聴いて今で言うビート・バンドにひけをとらないセンスをみせていたのがとても興味深い。キャロルとはまた違った辛口のビートなのだ。ほかにぎんざNOWでメイベリーンというバンドも何回か観たし、彼らは時の人気者・清水健太郎のバックも勤めていた。でもキャロルに比べるとシンプルで定型化したオリジナルだったりしてその後のキャロル・フォロワーにもみられる典型的なパターンを早くもみせていた。まぁ、こういったこともずっとあとになって批評的にわかってくるわけだけどね。