初めてバンドを組む

※この写真は1978年のもの。

 

大学生活も1年が過ぎようとしていた1975年3月、その後の人生に大きな影響を与えた出来事があった。バンドを組んだのである。

 

ビートルズにハマってからバンドを組むことは夢であったが、どういう風にそれが実現するのかは、まったくわからなかった。大学には音楽サークルとしてロック好きな連中がタムロしてるのもあったけれど、なんか「進んじゃってる」印象で、敷居が高かった。同級生にブライアン・メイにとてもよく似た雰囲気を醸し出しているヤツがいて「僕はこっち(クイーンとかプログレ系を指す)に来たけど、キミは歴史を遡ってるんだね」と言われたものだ。かように僕がその頃聴いてたビートルズにしてもストーンズにしてもチャック・ベリーとかましてキャロルにしても「古いものカテゴリー」だったのだろう。

 

春休みのある日、近所の埼玉会館でビートルス・フィルム・コンサートがあると知った僕は、昼食用にサンドイッチを買って、会場に向かった。朝昼晩、きちんと食べるという律儀な性格だったからね。

 

会場に着くと、国鉄遵法闘争(JRになる前、いわば春闘にあたるものとして「遵法闘争」の名の下にノロノロ運転が常だった。そもそもいまとは比べ物にならないくらい毎日電車は超満員だったから、このノロノロ運転で電車に乗れない乗客がアタマに来て上尾駅では暴動となり放火もされた・・・「上尾事件」と検索してみて欲しい)のあおりを受けて、フィルム・コンサートは中止だった。信じられない気持ちで拍子抜けした僕は屋外のベンチに座って、思案していた。そうしたら少し離れたところに高校生と思われる男が3人現れたと思ったら、ふざけながらこっちへやって来た。その日の少し前、浦和FMの例のリクエスト番組のゲストにサイタマの高校生でビートルズ好きな連中が出て、No Replyのイントロをジョンの声に似せて歌ったので、あれ?もしかしたらこの連中がそうじゃないか?と閃いた。そこで僕は声を掛けることにした。「今日のフィルム・コンサート中止なんだって?」「ああ、そうらしいな」「キミらもビートルズ好きなんだよね」「そういうキミもだろ」・・・みたいな会話のあと、お互いに同じ歳だということがわかり、彼らのほうでも僕を高校生だと思ってたらしい。その中のひとりT嶋は「俺もギター初めて1年だよ」と言い、おお、僕と同じだと急に親近感が湧いた。これが僕が初めてバンドを組むことになる連中との出会いだった。ここからの話は別コーナー「バックストリートの追憶」の方に詳しく載っているのでそちらを見てください。とにかく、これでビートルズに一歩近づいたわけだ。

「バックストリートの追憶」はこちら

グッバイ・キャロル、ハロー・DTBWB

僕の人生始まって最初のライヴ・コンサートは1975年4月13日、日比谷野外音楽堂・キャロル解散コンサートだ。ライヴというか生の音楽演奏は小学校2年頃、学校にやって来たダークダックスくらいで、本格的にロックンロール音楽にハマってからもライヴには行ったことがなかった。キャロルを観に行くというモチベーションはT嶋らと出会い、お互いキャロルが好きということがわかったので「一緒に行こうぜ!」となったからだった。彼らもたしかライヴは初めてだったんじゃないかな。

この日は「雨の日比谷野音・・・」とよく言われるが、降り出したのはすっかり陽が落ちてキャロルが出てくる頃だった。昼間はOKで僕はバンド仲間と会場で待ち合わせた。ところが、T嶋がやってこない。あとで聞いたらコンタクトレンズが不調になりとても観に来れる状態ではなかったととても残念がっていた。

 

野音だからリハーサルも筒抜けで、「メンフィス・テネシー」とかやっていたと思うが、僕も含めて入場の列に並んだ人たちに大きな音で漏れて来ていた。そのとき一人の少年が「ジョニー、リッケンバッカー!」と叫びながら走ってきた。きっと会場の中を盗み見したのだろう。ジョニーといえばテレキャスター・シンラインだったからこのラストコンサートにわざわざリッケンバッカーを選んだと言うことにさらに興奮した(実はこのリッケンバッカーの使用は初めてではなかった)

 

最初に3人組みのバンドが出た。名前はわからなかった。次に出たのがルージュと名乗るバンドでストーンズ風の連中だった。ストーンズも相当好きだった僕は一発でファンになり、その後何回か観に行っている。話はそれるが、一度小金井公会堂でやった時は共演が鈴木慶一とムーンライダーズで、なぜか彼らはフルメンバーではなかったが、僕の隣にいた観客から「今日、出演者すごいっすね」みたいな声を掛けられた。ルージュからスクリューバンカーズになってからも観に行ってたがこれも一度渋谷屋根裏だったと思うが山口冨士夫がゲストで出て来て、あまり人前に出なかった時期だったのだと思うがギターのオスが「この人、だぁ~れだ?!」みたいな紹介の仕方をしていた。

 

キャロルの前にもう一組、僕にとっては嬉しかったゲストが出た。バッドボーイズである。もっとも席に着いた時、ステージ上に彼らの名前を書いたドラムセットが置いてあったので胸が高鳴った。陽が暮れる頃、演奏された「ハニー・エンジェル」の美しさは格別だった。カバーにこめた想いと楽曲のよさがほんとうに光っていた。

 

そして雨がパラパラ降ってくる中で、ステージ上にキャロルが現れた。もうすっかり暗くなっていたのでステージだけがやけに明るく、別世界を覗き込んでいるような感じだった。席としては後ろのほうだったのでステージ前にどよめく観客全体が見えた。「おー、今日はちょっと雨降っちゃってるけど乗ろう!乗ろう!」みたいなMCをエーちゃんがやって「ファンキー・モンキー・ベイビー」が始まった!いまキャロルをナマで見ているんだという現実なのに現実でないような感じ。雨はかなり強くなってきて傘を差す観客も増えてきた。当然見えなくなるから多くの人が椅子の上に立っていた。僕も傘を差したが、隣にいたツッパリは傘を差してなかったので、「雨降っちゃってヤだね」みたいなに声を掛けたがツッパリは無言だった。

 

ステージが終わったら、パンパンパンパーン!と爆竹が破裂して、ステージ後方高く掲げられたCAROLという大きな文字に火がついて燃え始めた。誰もがこれは演出だろう、と思っていたと思うが、火は一向に収まる気配はなくそれどころかどんどん燃えてきて文字看板は溶けて落ち始めた。そしたら消防車のサイレンが聞こえてきて、あっ、これは事故だな、とやっと気がついた。

その頃、町では「スモーキン・ブギ」という曲がヒットしていた。イントロがエルモア・ジェームズのShake Your Money Maker(フリートウッド・マック版)だと言うことは少ししてから知ったのだが、テレビを見たらそのカッコよさにさらに参った!

 

解散したキャロルと入れ替わるようにして僕の前に現れたダウンタウン・ブギウギ・バンド!(以下DTBWB)再びリーゼントのバンドの登場だ。キャロルのラストツアーで共演してるんだよな。すごいなぁ!観たかったなぁ!とマジ思います。

 

「スモーキン・ブギ」は実は3枚目のシングルでその前に2枚。ツナギでない時代のがある。「スモーキン・ブギ」以降リードギターを勤める和田静男ではなく蜂谷吉泰という人で、デビューシングル「知らず知らずのうちに」が入ったファーストアルバムはサウンドも重たいいわばニューロック的な印象である。

 

「スモーキン・ブギ」に続いて「カッコマン・ブギ」という人を喰ったタイトルのシングルが出たが、そのB面に入っていた「港のヨーコヨコハマヨコスカ」で彼らの人気は不動のものになった。

キャロルが楽曲作りの上でとてつもない影響をもたらしてくれたとすると、DTBWBは歌詞の面で大きな影響を受けた。キャロルの歌詞はジョニーがあらかた担当してて、ピュアでまるで大吟醸のごとく磨きぬかれていたがDTBWBのは泥臭く、説明的で、それでいて心情風景をたくみに描き出していて、当時買ったLPにあった作詞・阿木耀子氏とはどういう人物だろうと想像が広がった。洋楽は勿論、メインで聴いていたが、邦楽ではDTBWBがトップだった。さっそく神田共立講堂に観に行った。みなずっと座って観ていたが、ラストの曲で後ろからまだ若い観客の一人がすばやくステージ前に走って行ったのをよく覚えている。自分の書く曲の歌詞にすぐ影響が出た。宇崎氏は「おれたちゃカタカナ演歌よ!」とよく言っていたが、たしかに日本的な要素はあるにせよ根底にあるのはブギウギ、ブルース、ロックンロールで豊穣な音楽をやっていた。とくにセカンド・アルバム「続・脱・どん底」はそういったルーツがむき出しになったすぐれた作品だ。そうそう「港のヨーコ・ヨコハマヨコスカ」はシングルは別テイク。

DTBWBは映画「トラック野郎・御意見無用」で菅原文太と共演したこともあり、75年夏には浅草国際劇場で「納涼!夏のツッパリ大行進!」というイベントが二日続きで開催された。そのとき好きだった(と言っても片想いだったが・・・!笑)彼女と観に行った。彼女もDTBWB、わけても竜堂さんのファンだった。場内はギンギンに冷えていて震え上がった。まさしく納涼なイベントだった。3枚目が実況録音盤でそのあと「ブギウギどん底ハウス」と言うのが出た。派手な銀色のジャケットで売れっ子になった雰囲気を醸し出していたが初期の2枚で聴けた泥臭さはなくなっていてちょっと不満だった。そのあと、企画モノで「GS」が出たが、そのあともさらに企画モノで「あゝブルース」が続いた。僕はDTBWBのオリジナルシングルとアルバムは全部買っていた。脱線するが、1990年、欧州駐在が決まって、クルマの免許を取得した際、高速教習で立ち寄った海老名ドライヴインで宇崎氏に握手してもらったことがある。「あれ、なんかバイクがたくさん停まっているな。もしかしたら宇崎さんいるかもしれない」となんとなく予感がして入ってみたらバイク仲間と一緒に宇崎さんが売店にいた!まさしく奇跡だ!すかさず走りより「ずっとDTBWBのファンでした。今度欧州に行くことになりまして。握手してください!」と手を差し出したら「がんばってください」の激励とともに握手してくれた。その手は意外なほど柔らかかった。