「俺と言う時代」とは

僕の音楽体験を綴るコーナー。実はこれ、物語として書くだけでなく、2018年5月から12月、高円寺Green Appleで音楽仲間とお客様参加型DJ形式でイベントをやっていた。ここんとこ新たなアイデアを練りながら再開計画しているのでご期待ください。


洋楽ポップス事始(1970年あたり)

1970年と言うと大阪万博があった年だ。中学生の修学旅行で訪れた。さいたまの中学校だったので遠路はるばるいわゆる修学旅行列車と言うもので行ったのだ。当時、乗り物に弱かった僕は、行きの品川あたりですでに地獄の一丁目、関西に入る頃には泥酔、という苦酸っぱさ(甘酸っぱい青春ではなく)で満たされていた。

面白いもので宿に着いて一泊すると翌朝はケロリと気分は一新、そのあとは快適に旅をした。大阪万博では初めて外国と言うものに接し、とくに英国館だったかで購入したキャンディの色がものすごい赤で、それが初めての外国の強い印象となった。

電車では何両か貸し切っているので、ツッパった数名は学生服のボタンを下から2個くらい残して明け、襟を折り返し、あたかもブレザーのようなアレンジで着こなし、車内を闊歩していた。そうやってイキがる年頃だったのだ。

また受験を控えた頃になるとちょうどビートルズが解散寸前でTVで東芝ステレオ「ボストン」のCMに映画「レット・イット・ビー」のシーンが使われており、それを聴いていたやはりちょっとマセた友人が通学帰路、シルバーカラーのドロップハンドル仕様の自転車(たしかブリヂストン製だ)を転がしながら♪エルピー、エルピーィーと歌っていたが、後になんでLPなんだよと可笑しくなったものだ。

TVではGSも含めて歌謡曲全盛だったから家でTVが点いているままに観ていたが、GSで言えば時代は3年ほど遡るが、僕が中学入学の際、学研の「学習」の附録がGS図鑑で、中学生になったことが妙に大人びた気分になったものだ。GSではスパイダース、タイガース、テンプターズあたりがお気に入りだったが、途中からなぜかパープル・シャドウズの「小さなスナック」に惹かれ、また突然現れた異色グループのフォーク・クルセダーズに傾倒し、遠足のバスでマイクが廻ってくると「悲しくてやりきれない」というまったくその場に合わない歌を歌う一風変わった少年だった。

さて、そうやって1970年、中学を卒業し、高校に入る頃、僕を一気に洋楽の世界に振り向かせたヒット曲があった。マンダム化粧品のCMで堂々と歌われたジェリー・ウォレス「マンダム男の世界」であった。ちなみに近所にはキャバレー「女の世界」というのがあったがマンダムとは無関係である。

この曲で初めて「洋楽っていいなぁ」と気づき始めるわけだが、中学校時代に接していた洋楽としては朝晩&お昼休みにかかる校内放送ナンバーでたとえば「ワーク・ソング」(ハーブ・アルパートとティファナ・ブラス)、「500マイル」(ピーター・ポール&マリー)、「西暦2525」(ゼーガーとエヴァンス)、「キサナドゥの伝説」(デイヴ・ディー・グループ)、「マンチェスターとリヴァプール」(ピンキー&フェラス)などがあった。

そう言った自分のチョイスではない曲とは違い、マンダムは当時買ってもらっていたSONYのカセットテープレコーダーに録音して残したい!という気にさせた初めての曲だった。それにしてもカセットテープレコーダーを買ってくれた両親には感謝だ。しかし、家にあったのはこれまたSONYの技術の粋を発揮したちっちゃいAMラジオ。録音端子などなく、カセットテレコのマイクに近づけての録音だったから音質はビートルズの海賊盤並みだった。

一旦、洋楽の火が点くとそのあとの展開は速かった。

 

まず、ちょうどTVで再放送をやっていたモンキーズに目が留まった。コメディタッチで面白い。「デイドリーム・ビリーヴァー」がお気に入りNo.1となった。

高校入学祝いに最先端のこれまたSONY(SONY様様だ)のIC11というブラックボディのFMラジオを買ってもらい、エアチェック体制は整った。カセットテレコをいち早く買ってくれた両親だったが、家にはステレオもレコードプレイヤー(電蓄だ)もなく、そもそもレコードを聴くという習慣も趣味もなかった。そんな環境だったから僕がレコードを買うようになるのは大学1年まで待たなくてはならない。

 

高校時代はSF研究会をやっていたこともあり、音楽にもSF的なものを求めた。その典型的なのがピンク・フロイドだった。宇宙音というかキューン、とかヒュイーンとかいう音が聞こえると嬉しかったりした。TVでポンペイのライヴも観た。

ラジオでヒットチャートを聴くようになり、大学ノートにランキングを付け始めた。日曜の朝にTBSでは八木誠氏、ニッポン放送では亀淵昭信氏、文化放送は忘れてしまったがほぼ同時にヒットチャートものを放送していた。それを毎週欠かさず聴いた。FMでは日曜正午からの東芝ステレオ・サンデー・ミュージック、神太郎氏がホストで石坂敬一氏が新譜を紹介するコーナーがあったりした。また土曜の午後はサウンド・イン・ナウだったかな。すぎやまこういち氏がホストの番組で氏のビートルズ好きを反映してビートルズ特集が多かった。そしてローカルな浦和ミュージック・サタデイ。ここはリクエストをやっていてずいぶんかけてもらったものだ。そうそうリクエストと言えば初めて僕のリクエストが掛かった時の面白いエピソードがあるがあとで語る。

さて、高校に入って最初の日、放課後、教室の出窓に胡坐をかいてエレキ・ギターをアンプなしで弾いてる男がいた。なんとはなしに会話をした。そのとき彼が弾いていたのは赤いSGモデルで曲は「ロール・オーバー・ベートーベン」だった。ギターは不良というコンセプトのもとリスナーに徹していた僕には目の前でギターを弾くヤツがカッコよく見えた。彼はCCRの「ボーン・オン・ザ・バイヨー」のイントロも弾いてみせた。簡単だぜ、これ、ほらこうやって押さえるだけだ、と5フレットでE7を弾いてあのイントロを再現してみせた。

 

おっと、ラジオからギターの話になってしまったが、リスナーとしての体験に話を戻そう。

モンキーズ、ピンク・フロイドのあとに来たのはCCR、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルだった。ちょうど「雨をみたかい」がヒットし始めた頃で、その力んだ歌い方が気になっているうちにすっかりファンになってしまった。「アップ・アラウンド・ザ・ベンド」「グリーン・リバー」「プラウド・メアリー」などラジオをたとえ朝寝床で聴いていてもリズムで体が動いてしまう不思議なウキウキ気分。僕が最初に好きになったロック・バンドだ。近所の書店でCCRの洋書を見つけたので買って読んでみるとジョン・フォガティがブラッドベリをはじめSFが好きだと言うことがわかった。なんという嬉しい発見!そうか、宇宙の音を出さなくてもSFは可能なんだと気づいた瞬間だった。

ビートルズとの出会い

モンキーズが実はビートルズをモデルにして作られたグループだなんて知る由もなく、モンキーズ最高じゃん、とのめりこんでいるうちにビートルズというバンドの存在を知るようになる。いや、ちょっと待った!バンドとしてのビートルズの前にまず「マイ・スウィート・ロード」だろ。♪じゃんじゃんじゃじゃん、じゃんじゃんじゃん~というF#m/B7のコード展開から始まるその歌は大ヒットして何回も耳にするようになっていた。ビートルズ自体は70年4月に解散しているので、先のTV CMを覗いては通称「アフター・ザ・ビートルズ」から僕のビートルズ体験は始まっているのだ。

そして「アナザー・デイ」「明日の願い」と来て、ゴイ~ん、ゴイ~んと始まる「マザー」。4人が揃った。でも「マザー」だけは異色感を感じていた。そしてビートルズ本体の写真を見る日がやってくる。あれ?ビートルズって女の人もメンバーなんだ。しかも5人?モンキーズは4人でやってるのに一人多いとは卑怯な。しかもこの長髪に髭、誰が誰だか見分けがつかない。モンキーズはあんなによくわかるのに・・・なんてのが初対面の印象だった。

目にしたのは「ジョンとヨーコのバラード」のシングル盤のジャケットに使われた写真だった。そんな気分でいるうちに「レット・イット・ビー」を何回もラジオで聞くようになった。間奏のエレキ・ギターのえぐさがちょっとヤだった。同時にラジオで聴いた「イエス・イッツ・ミー」。エルトン・ジョン。ジョン?サウンドもストリングスやエレキ・ギターの音色など「レット・イット・ビー」を思わせるところがあり、エルトン・ジョンはビートルズのメンバーなのか?と真剣に誤解したりしていた。とかく始まりはそんなものだ。

しかし、聴いていくうちにおい、ビートルズっていいな。なんかクラシックぽいだろ。高級品だよ。なんてポップスを無理に「いいもの」にしたがる僕だった。だからラジオから初期のたとえば「ロックンロール・ミュージック」や「のっぽのサリー」が流れても好きになれなかった。ちょうどロックとクラシックの融合なんてのが言われてもいたからね。そういえば高校1年のクラスで自己紹介があったとき、クラシック好きなH君が「ロックが好きな人が多いですが僕も『バ・ロック』が好きです」なんていう冗談めかしたことを言ってたのを覚えているし、隣の席のヤツが「好きなバンドはクリームです」と言い放っていたのもよく覚えている。覚えていると言えば先のギター小僧が「俺、どっちかって言うとジョージだろ?」と太くピンとした眉をくいくいっとやりながら言ったのを理解できたと言うことは、その頃にはビートルズとはどういうものかをかなり学んでいたと言うことになる。中学3年の後半から高校入学までの短期間ですごい情報量を吸収したことになる。

さて、どんどんビートルズにのめりこんでいくわけだが、忘れられないエピソードがある。中学3年で仲のよかったT松君というのがいて、彼は相当なビートルズ・ファンだった。高校に入って、彼と再会する機会があり、話をしていくと、最近はエルヴィスばかり聴いているという。ちょうど映画「エルヴィス・オン・ステージ」が大ヒットし、♪When I say~と始まる「この胸のときめきを」がラジオからさかんに流れていた。そしてあんなに好きだったビートルズはもう聴かない、あいつら不良だもん、ときた。おいおいおい、ちょっと待てよ、と言うところだが、彼の決心は固く、それ以来、T松君には会っていない。

ビートルズのことをもっと知りたいと思った僕は当然、書物に手を伸ばす。これがロックンロールへの決定的な手引書になってしまうのであるが、まずハンター・デイヴィス著の定本「ビートルズ」を買ったんだと思う。というのはその頃、出版された「ビートルズ革命」でジョンが「あの本はサンデー・タイムス風に書いてあるわけですよ。素敵な4人みたいな」と発言していることを理解できたから。この「ビートルズ革命」はローリング・ストーン誌のインタビューでLennon Remembersと言われたものを邦訳したものだ。片岡義男氏の訳は妙に丁寧な言葉でちょっとしっくり来なかったが内容は暴露本みたいなものだからびっくりしたものだ。ペンギンブックスでLennon Remembersが出ていてそれも買ったが、かなりマイルドに編集されていたと知ったのはずいぶんあとだ。高校の英語教師T辺氏がビートルズ好きで僕のその本を見つけて手にとって見てたっけ。なぜそのような展開になったのか忘れたが、なぜかクラスで僕が持ってたカセットに入ったImagineを掛け、「うんまいなぁ!ジョンは!」などとほめていたが、クラスのみんなはノッて来なかった。

ギターはまだぜんぜんヤル気がなかった僕はBeatles 80と題された歌本を買った。本屋の棚から手にとっては戻し、その場を離れてからまた戻って手に取る・・・という動作を何回か繰り返したあと、一念奮起して買った。その迷いの心は、値段ではない。この本を買ったら不良になってしまうんではないか、そんな気がしたからだ。FMエアチェックした曲に合わせ、歌い始めた。すでに高校生活も後半になっていたと思う。

当時、LPをそのままそっくり放送する番組がかなりあり、僕はせっせとエアチェックにいそしんだ。朝の番組で一週間ぶっ通しでビートルズ特集があり、アルバムを順番に掛けていた。それを聴いていると学校に間に合わないから母に録音を頼んだ。第一回はうまくいったが二回目で番組が始まってまもなくするとジジジ・・・!と電波が乱れ始め、ついにYou've Really Got A Hold On Meの途中で無残にもザー!となってしまった。帰宅してそれを聴いたときの無念さと言ったら!そのとき僕はレコードを買うようになったらまず最初にYou've Really Got A Hold On Meが入ってるのを買おう!と誓ったのだった。

上述のFM番組にリクエストをしたり、FM週刊誌を立ち読みして、家に着くと勉強机に広げてあった紙にダーッとそれを書き下ろすことをやったお陰でビートルズの213曲全部エアチェックで揃えることが出来た。もう、初期のナンバーから全部好きになっていて、いやむしろ、初期のビートルズこそサイコー!と書いた日記もあるくらいだった。自分で選曲した幻のアルバムを構想してみたりもした。